昨日 ニールの「ありのままの自分を生きる」 を読んで
思い立って 「神との対話」のHPの過去のフォーラムを見ていたら
以前私が書きこんだコメントに 管理人のnanaさんが返事をくれたのに目がとまった
>Doing 「何をするか」ではなく
>Being 「そうしている時自分がどんな存在であるか?」
あの時はあいまいだったことが 分かった気がする
ずっと なぜこんなに楽しむことが出来ないんだろう? と思っていた
私は 楽しめない とあきらめているのか?
楽しんではいけない と思っているのか?
いったいぜんたいなぜなんだ? と
かえってきた答えは
なにものでもないのに楽しめない だった
なんものでもない人を見下し
なにものでもない自分を責め
なにものかになろとしている自分なら許せて
なにものにもなろうとしない人たちを見下す
でも その なにものかになろうとしているのが ちっちゃい自分(自我)だと気がついた
ちっちゃい自分は なにかにならなければいけなかった
何をするか? と考えているのは ちっちゃな私だった
何かをするとき これをすれば こうなれる
そう考えてしていたのは ちっちゃな私だった
だから 無駄に時間を過ごすことを許せなかったんだ
Being 「そうしている時自分がどんな存在であるか?」
それは ちっちゃな私 なのか 大きな私なのか そういうことなのかな? と
今日 それを踏まえて ニールの本に書いてあった ワーク(なのか?)をしてきた
その時 はじめて ちっちゃな自分から 大きな自分にシフトするのがわかった
そして 大きな自分から いとも簡単にちっちゃな自分に戻ってしまうことも
小さなことに幸せを感じる そんな自分になりたい と思っていた
まだそんな感情は湧いてこないけど 希望が

と書いて あれっ? こう書いたのは もしかしてちっちゃい私か?